奥寺 康彦(オクデラ ヤスヒコ)
現 職
サッカー解説者
横浜FC会長兼スポーツダイレクター
<資格>
財団法人日本サッカー協会公認 S級コーチライセンス
略 歴
1952年3月12日 秋田県出身 相模工大附属高(現・湘南工科大付属高校)卒業 |
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1997年 | 旧西ドイツの名門チーム「1FCケルン」から日本人初のプロサッカー選手としてデビュー。日本で初めての「世界に通用するプロサッカー選手」が誕生した。帰国するまでの9年間、ブンデスリーガ(西ドイツ1部リーグ)で通算235試合に出場し、25得点をあげている。 |
1986年 | 帰国して、古河電工とプロ契約、日本国内最初のプロサッカー選手となる。 |
現役を引退後、東日本古河サッカークラブ(ジェフユナイテッド市原)のゼネラルマネージャーに就任。 | |
同チームのスーパーバイザー、監督を経て、サッカー解説者として活躍するかたわら、2002年ワールドカップ・横浜開催準備委員などを務める。 | |
1999年 | 横浜FC設立当初よりゼネラルマネージャー |
2000年 | 横浜FC代表取締役ゼネラルマネージャー就任 |
現在 | 横浜FC会長兼スポーツダイレクター |
主な実績・データ 等
◆◇◆ DATA ◆◇◆ |
日本代表通算出場回数 33試合(A代表・FIFA公認国際試合) |
日本リーグ通算出場回数 143試合(1970〜77年、1986〜88年) |
日本リーグ通算得点 39得点 ・日本リーグ通算アシスト20アシスト |
ブンデスリーガ通算出場回数 235試合 ・ブンデスリーガ通算得点 25得点 |
◆◇◆ ブルデスリーガ ◆◇◆ |
1977 1FCケルン入り |
1980〜81 シーズンの後半2部のヘルタ・ベルリンへ移籍 |
1981 ヴェルダー・ブレーメンへ移籍 |
ブンデスリーガでは9年間在籍。 63試合連続出場記録を樹立するなど通算235試合出場し25得点挙げた。 |
主な講演テーマ例
◆チームワークと自己への挑戦
◆私のサッカー人生
主なメディア出演・掲載実績 等
WOWOW EURO 2004 解説者 |
WOWOW スペイン リーガエスパニョーラ 解説者 |
J.SPORTS ドイツ ブンデスリーガ 解説者 |
日本テレビ 2002 FIFA World Cup 解説者 |
Sky Perfec TV! 2002 FIFA World Cup 解説者 |
東京新聞 サッカー解説 |
夕刊フジ サッカー解説 |
<サッカー指導プロジェクト> 奥寺スポーツアカデミー 他 |
主な著書
オンデマンド(ペーパーバック):70ページ 『我が道』 (スポーツニッポン新聞社) ※Kindle版はこちら。 |
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<内容紹介> Jリーグが誕生した1990年代以降、日本出身のサッカー選手が本格的に海外プロリーグに飛び出していくようになりました。三浦知良、中田英寿、中村俊輔、本田圭佑…今も日本代表で主力を担うスターたちが、欧州を中心とした各国リーグで戦っています。だがそんな現代から遡ること40年以上前、70年代に当時の世界最高峰といわれていた西ドイツ・ブンデスリーガで「東洋のコンピューター」と称賛されたパイオニアがいました。スポーツニッポン紙上での自伝連載を書籍化した「我が道」シリーズ、今回は奥寺康彦氏が登場します。 奥寺氏は1952年(昭27)、秋田県生まれ。古河電工でFWやMFとして活躍し、18歳で日本代表に選出されます。運命が大きく変わったのは77年。2カ月間におよぶ西ドイツ遠征でケルンのバイスバスラー監督に才能を見出され、初の日本人プロ選手の道が開かれました。その後ベルリン、ブレーメンと計3チームで9シーズンを戦い抜き、日本サッカー界に傑出した足跡をのこしました。 抜きんでたサッカーの実力と謙虚な人柄。奥寺氏が出会う人々から次々とチャンスを引き寄せたのは、そのパーソナリティあったからこそです。豊富なエピソードに彩られた開拓者の物語は、40年後の今だからこそ輝きを増しています。 |
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『オーバーラップ これは運命だったのかもしれない』 (宝島社) |
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<「BOOK」データベースより> 横浜FCをJ1へ導いた8年間の軌跡と激動の半生。 |
『驚くほど使える 世界のサッカー足技・トレーニング』 (成美堂出版) |
『ワールドカップスカウティングレポート』 (ザ・マサダ) |
『楽しいサッカー』 (小峰書店) |
『サッカーワールドカップ大百科 』 (勁文社) |
『中高生のためのサッカー上達セミナー』 (ベースボールマガジン社) |